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May 11, 2007

「『キューティーパイ』萌え萌えライブ」再論、または、私的「萌え」論序説 番外編~ケーススタディ~



 さてさて、辺境の地の森の中で、ひっそりと営んでいるこの養蜂場。訪れる人も少なく、商品を購入してくれる人(=コメントを残してくれる人のことです)は更に少ないのですが、それでも毎日やりがいを感じて、この養蜂場を営んできました。
 そんな中で、この養蜂場始まって以来の大注文が舞い込んできたのです。今まである商品では、その注文には対応できないので、改めて新しく商品を開発することにしたのでした(・・・って、何をどう比喩しているか、分かりますでしょうかね・・・巧く表現できなくてゴメンナサイ、別に分からなくても、本文を読んでいただければ事情は把握できるかと思います)。



はじめに~この記事が生まれる経緯~


 さて、今回の記事は、5月1日に行われたCutie Paiの競輪場でのイベントについての感想の再論になります。具体的には、イベントのタイトルに入っている「萌え萌え」および「萌え」という言葉をめぐる考察になります。


 まず、この記事を書くに至ったのかについて、その経緯を説明させてください。はじめの前書きだけでは、訳が分からないでしょうしね。
 あの日のイベントの感想は、「『萌え萌え』とかじゃなくて」というタイトルで書きました。イベントタイトルを全否定しかねないような記事のタイトルを付けたことに、ちょっと不安を覚えましたが、記事の内容と合わせれば決して(僕の意図が)誤解されることはないはず、と思っていました。

 ただ、「萌え」という言葉については、自分なりのスタンスを固めておく必要があるのかな、とも思って書き始めたのが、「私的「萌え」論序説(1)~はじめに~」という記事になります。こちらは、自分が好きなもの(Cutie Pai)に対して修飾する言葉を(本能的に)拒んでしまった「萌え」という言葉をめぐって、いろいろ考えようとする連載企画です。


 こうして、「『萌え萌え』ライブ」をきっかけとして、一連の記事を投稿したら、思いがけない反響をいただきました。「私的「萌え」論序説(1)」に対して、紅薔薇さんから、大変充実したコメントをいただきました(こちらをご覧ください)。お返事でも書きましたが、訪れる人の少ない辺境ブログに頂くには勿体ないほどの内容です。直接は、「私的「萌え」論序説(1)」へのコメントなのですが、内容的には、Cutie Paiと「萌え」という言葉との関わりが主たる内容になるかと思われます。それに対してキチンとお返事しようとしたら、独立の記事になるほどの分量になりそうなので、こうして新たな記事として論じてみることにしました(それ以外の部分に対するお返事だけでも、随分な分量になってしまっていることだし・・・)

 ということで、5月1日のCutie Paiのイベントについて、前回の記事(「『萌え萌え』とかじゃなくて」)を投稿してから考えたことや、頂いたコメントを踏まえてもう少し考えてみたことを書いてみようと思います。

 最初に書いたとおり、イベントのタイトルに入っている「萌え萌え」および「萌え」という言葉をめぐる内容です。既に終わってしまったイベントのタイトルについて、こうしてこだわっているのも、正直言ってどうか・・・とも思います。タイトルなんて、「あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ」・・・なんてことを言われてしまうかもしれません(^^ゞ(・・・別に僕は偉い人じゃないけど・・・)

 もう1つ、「私的『萌え』論序説」の番外編としての位置づけもあります。まだ「萌え」について本格的には何も論じてはいませんのに、いきなり番外編というのもおかしな話かもしれません。ただ、スタンスがまだ明確になっていない今の段階で、「萌え」という言葉に対して自分が感じることを、きっかけとなったCutie Paiのイベントからを考えるのも、無駄ではないと思うのです。ですから、Cutie Paiのイベントをケーススタディとして、萌えに対する自分の暫定的なスタンスを明らかにしておく、という目的も付与されるわけです。


 以上、今回の記事が生まれる経緯を説明しました。Cutie Paiによるライブと「萌え萌え」または「萌え」という言葉との関わりについて論じていきます。ここでの問題を、2つに整理してみました。1つは、Cutie Paiに「萌え」という表現を用いることは、はたしてアリなのか?もう1つは、「萌え萌え」とかじゃなければ、いったい何なのか?・・・ということになります。




出発点としての「萌え」


 ここで考えるのは、Cutie Paiに「萌え」という表現を用いることは、はたしてアリなのか?・・・ということです。

 といっても、そもそも、そんなことは誰かが裁断するような問題ではないので、あくまでも僕にとってアリかどうかということになります。しかも、その結論自体よりは、その結論に至るまでどう考えたかを(読んだ人には)評価してほしい、とも思います。更に、
Cutie Pai一般というのは荷が重過ぎますので、今回のイベントに絞って考えていくことにさせていただきます。


 さて、実は答えは既にタイトルに出してあります。「出発点としてならアリかも・・・」ということになるかと思います。


 今回のイベントのタイトルを初めて知ったのは、会場となる競輪場のサイトでした。この言葉を見たときは、「萌え萌え」という言葉に凄く複雑な気持ちを感じましたが、それでも、分かりやすさを考えると、まぁこういう表現になるよなぁ・・・とも思いました。
 この言葉に具体的にどんな意味が含まれているか、と問われると非常に困るかもしれませんが、それでもこの言葉に何らかの勢いが含まれていることも事実だと思います。だから、その言葉によって人々が興味関心を引き付ける何かがあるのかもしれない、と期待することは、決して間違っていないのかも・・・と思います。

 あの会場で、「萌え」という言葉が人を引き付けるというのか、という問題はあるかもしれませんが、逆に、ああいうアウェイな会場だから有り得るとも思います。例えば、アキバで「『萌え萌え』ライブ」と銘打っても、そのタイトルだけで、果たして人を引き付けることが出来るでしょうか?「萌え萌え」なもので囲まれている場所で、そんなタイトルを掲げてもインパクトが弱いだろうし、かえってそのセンスが疑われると思うのですが・・・。

 あと、これは消極的な理由になるかもしれませんが、「萌え萌え」という言葉以上に多くの人を引き付けるタイトルがあるのか、という側面もあります。私は、今のところは、思い浮かびません。


 だから、「出発点としては」アリなのです。




 しかし、「萌え萌え」という言葉によって、ある程度の人々を引き付ける可能性が期待できる一方で、その言葉によってかえって反発する人々もいることも事実だと思います。それは、「萌え」という言葉に対して、どこかネガティブなイメージを持っている人々です。
 コメントを頂いた紅薔薇さんの発言によると、

 結局『萌え』といった言葉を使った瞬間に物凄くそのモノの価値が安くなってしまうような気がするのです。恐らくその辺の意識が彼女達を『萌え』と呼ぶことに対する嫌悪感になって現れていると思うのですが…

とありますが(こちら)、これはそういった人々の思いを的確に表現していると思います。


 こうしたスタンスを説明するのに、これ以上の言葉はないかもしれませんが、僕の場合で説明すると、こうしたことも感じました。

 もし、知らない誰かが、こうしたタイトルでイベントをやったとしたら、例え無料で時間的余裕もあってすぐ近くの場所で行うことを知らされても、それに行くことはあまりあり得ないな、と思います。もし、何かのそのイベントに参加したとしても、かなり懐疑的な思いを抱きながら見始めることになるかと思います。

 何故かというと、紅薔薇さんがおっしゃるような、「萌え」という言葉に含まれる安っぽさというのもありますが、もう1つ、外から与えられる「萌え」への違和感というのもあります。今回の場合、更に「萌え萌え」と、言葉を二つ重ねた言葉がタイトルとしてつけられることによって、どこか感情を押し付けられるような感じもするのです。


 これはこれから考える必要があるかもしれませんが、本来「萌え」というのは、自分が内発的にその対象から見出していくものだったですが、その言葉が流行して定着してしまうと、自ら見出す前に既にその言葉がレッテルとして貼られてしまっている、という側面があります。そうなってしまうと、自分の中から沸き起こる感情を表す言葉としての「萌え」と、いう本来の勢いを持った意味合いから外れて用いられて非常に強く複雑な思いを感じさせたのかもしません(おそらく、こうした使われ方が増えていっていることも、「萌え」という言葉が安っぽくなった言葉になっていまっている理由なのかもしれませんね)。


 こうした場合、「萌え」という言葉でネガティブな印象を与えてしまうのかもしれません。しかし、この言葉はあくまでも出発点に過ぎないと考えれば、別に、それほど深刻なことではないのかもしれない、と言うことができます。この言葉で足を向けなくなってしまうとすれば残念かもしれませんが、これについては他にどうしようもできないと思います。
 しかし、少なくとも違和感を持ったとしても、実際のステージを見れば、「萌え」という(こういった人々にとっての)ネガティブなイメージを吹き飛ばす可能性があると思うからです。ただ、こういう人々があの会場にそんなにいるのか・・・というと、皆無とは言いませんが少ないとも思います。そこまで「萌え」という言葉について真剣に考える人なんていないんじゃないかとも思いますし・・・。


 以上を踏まえると、タイトルの「萌え」というのは「出発点としてはアリ」ということになるのです。いろいろな足し引きをしてみたら、決してマイナスではなかったのかな、とは思うのです。ただ、あくまでもそれは出発点での話に過ぎないという評価です。それで、ある程度興味関心を引き付けるのであればラッキーだし、そうでないとしても、それはあくまでも入口に過ぎず本質部分じゃないから決して深刻ではないとも思います。
 ということで、出発点とか入口といったところから、どの本質部分へと話が移ることになります。そこでは、「萌え」という言葉はどうなるのかということは、次の項での話になります。




「萌え萌え」じゃなくて・・・再論


 Cutie Paiのライブに「萌え」という言葉を使うのは「出発点としてはアリ」だとは思います。しかし、Cutie Paiのステージの中身を表現すると、やはり「『萌え萌え』じゃなくて」という言葉を僕は選びたいと思うでのす。「萌え萌え」じゃなければ、何なのか?、というのがこの項の課題ですが、その前提として、Cutie Paiは何故「萌え萌え」じゃないのか?という問題もあるかと思います。それを踏まえたうえで、「萌え萌え」じゃなくて何なのか、ということを論じていこうと思います。

 このあたりについて、前の記事ではこう言っています(最後の方の段落です)。

 (会場の人々の心のどこかに刻まれるものがあったとしたら)それは「萌え」という今流行りの記号によって導かれた訳ではなく、毎回毎回のステージに際して、当たり前のことを手抜きなくしかも無理なく追求していったことの結果だ、とも思いました。

 実は、あの記事では、自分としてはこの一文が一番言いたかったことなのですが・・・。この記事では、この一文をもう少し詳しく説明していくことになるかと思います。


何故「萌え萌え」じゃないの?

 まず確認しなければならないこととして、「萌え萌え」じゃないと言っても、CutiePaiを否定的に見ているわけではありません。これは大丈夫ですよね。

 次に、Cutie Paiに萌えが全く見出すことが出来ない、というつもりもありません。これはどうでしょうか。「『萌え萌え』じゃなくて」なんて言い切ってしまったから、もしかしたら、そうは思っていいただけないかもしれませんね。
 その辺を巧く切り抜けるとすると、「萌え」というものが積極的に用いてこなかったような人間が、そもそも「萌え」が見出すことが出来るかどうか、なんて判断できるはずがありません。・・・といって逃げる切ることが出来るかどうかは分かりませんので、もう少し続けましょう。「萌え」が見出すことが出来るかどうか、なんて人それぞれの判断でしかありません(・・・というのも逃げですよね(^^ゞ)。ですが、世間一般的に言われていることをある程度踏まえて、自分が敢えて判断したとしても、いわゆる「萌え」の要素はあるとは思います(「萌え」を充分理解したとはいえない自分が言ったとしてもあまり説得力はないのですが・・・ということは承知の上で言っていることとご理解ください)。

 ただ、その要素を「萌え」という言葉の方向に持っていって表現しようとは思わないのです。たとえ、客観的にみて「萌え」要素があったとしても、主観的には「萌え」という言葉を使って、Cutie Paiのことを語ろうとは(現時点では)思わないのです。これが、Cutie Paiの本質部分における、第一の主張です。


 それでは、Cutie Paiを語るのに、何故「萌え」という言葉を使わないのか、ということが問題になると思います。それは「萌え」という言葉では、その素晴らしさを語るにはあまりにも頼りなさ過ぎるからです。

 「萌え」という言葉は、現時点で世間一般的に明確な意味を持っている言葉ではありません。また、この言葉を使う個々人にとっても、必ずしも明確な意味を持って使われている言葉というわけではないことも多いと思います。雰囲気的には、多くの人々を引き付ける勢いを持った言葉かもしれませんが、その具体的な中身については、明確で普遍的なものを見出すことが非常に難しいと(現時点では)思います。そんな不確かな言葉なんかでは、この素晴らしさを語ることはできないのです。これが、第二の主張になると思います。


 ただ、不確かな言葉であると思っているのは、「萌え」という言葉をキチンと理解していないからだ、という可能性はあるかもしれません。普遍的に通用する形で、もしくは僕個人が充分納得できる形で「萌え」という言葉に明確な意味を付与した上で、この言葉が使えないかどうか・・・というと、もしかしたら使うことが出来るかも・・・という可能性はあるかもしれません。そこは、もう少し考えようと思います。


「萌え萌え」じゃなければ、何なの?

 自分にとって、Cutie Paiの素晴らしさは、「萌え」という不確かな言葉で表すことができない、というか、表してはいけない、と思うのです。だとしたら、どうやってその素晴らしさを語るのか、ということになると思います。

 逃げるわけじゃありませんが、現時点で、これだ、と明確に言い切れる回答はありません。それを語るにはまだまだ未熟だと思います。このブログでこれまで書いてきたことと、これからいろいろなイベントを見たり、CDを聴いたりすることによって、それを具体化し明確にしていきたいと思っています。


 ・・・なんて言っていると、とても優等生でありきたりな発言で終わってしまうので、今回のイベントを素材にして、もう少し踏み込んでみたいと思います。


 「萌え」という不確かな言葉では、その素晴らしさは説明できない、と書きましたが、こう書いてしまうと、Cutie Paiの素晴らしさというのがどこか非常に特殊なところにあるような書き方になっているところもあります。あまりこういう方向に行き過ぎると、Cutie Paiだけが、他とは異なる特別な存在だという位置づけになってしまい、語っていて独善的になりそうな感じもします(・・・語っている僕自身が独善的になる、ということです)。

 しかし、僕自身は、決してそんな形を望んでいませんし、そうならないような形で表現しようと思っています(「萌え」という言葉に頼らないのも、そういうことがあるのかも)。できるだけ、自分が受け取った感動を、できるだけ広く普遍的に理解可能な形で表現しようと思っているのです。なかなか難しい課題だと思うし、上手く言っているかというとまだまだだと思いますけどね。


 そんな意識も背景に持ちながら、先ほど前の記事から引用した言葉で言うと、「毎回毎回のステージに際して、当たり前のことを手抜きなくしかも無理なく追求していったこと」というのが、Cutie Paiのステージの素晴らしさの本質の一端なのではないか、と思います。ここでいう「当たり前のこと」というのは、歌と踊りを通して目の前にいる人々を楽しませること、だと言えます。

 今回のイベントでは、その部分に関して、Cutie Paiというのは非常に柔軟性があるな、と思いました。いつもとは異なる客層というか雰囲気を持っていたイベントだったからこそ、それを見ることができたと言えます。端的には、曲の選択に表れていましたが、それだけではありません。

 凄く些細で、僕が読み込みすぎなのかもしれませんが、あのステージでは、「私たちは、見ての通り、お人形です」というお決まりの自己紹介を一切使わなかったことにも表れていたのでは、と思うのです。「萌え萌え」というのを追求するなら、あのセリフはアリというか必要とも言えるかもしれませんが、(いつものライブハウスでなく)あの会場で歌と踊りのステージで目の前にいる人々を楽しませるという目的にとっては、必ずしも必要なセリフではないと思います(むしろ邪魔・・・というと言い過ぎかも知れませんが、たぶん出てきたら引いてしまうかも)。どういうつもりで使わなかったかは、本人たちでなければ分かりませんが、「新人アイドル」(新人ねぇ・・・、という思いもありますが[笑])という分かりやすい言い方で自己紹介したところに、初めて目の前で見てくれた人々に対する柔軟な誠実さが表われていると思います。

 こう書くと、単に客に媚びているだけなのじゃないのか、という意地悪な見方も出てくるのかもしれませんが、決してそうではありません。今まで見たことがないようなタイプの雰囲気に合わせながらも、きちんと自分たちのスタイルも維持できる形で、ステージを作るあげることができているのが、Cutie Paiだと思います。だから、あの日のイベントは、いつもと違うところがあったとしても、やっぱりいつものCutie Paiと同じように充分楽しむことができたと思うのです。


 このように、毎回毎回のステージに際し、見に来てくれた人を幸せにするという当たり前のことを手抜きなくしかも無理なく追求していることが、「萌え萌え」という言葉を超えた、Cutie Paiの素晴らしさである、というのが、現在の暫定的な結論であると言えるでしょう。




結びに変えて


 「萌え萌え」という言葉とCutie Pai。入口としては「萌え」という言葉はアリだとは思います。ただ、Cutie Paiの素晴らしさの本質を、この言葉に頼っていては言い尽くせないと思うのです。「萌え」という言葉は、本当に素晴らしいものを語るには、あまりにも頼りなさ過ぎます。そして、Cutie Paiは、そんな頼りない言葉を用いるのではなく、確かで普遍的に表現な可能な言葉で表現していきたいし、こうした表現で表されるべき要素こそがその素晴らしさの本質だと思う・・・これが、今回の結論になります。


 ということで、ひとまず最後まで議論を持ってくることができました。まだまだ充分伝え切れていない点は多々あります。ですが、またどこかの機会で、こういった内容を語ることがあるかと思いますので、その時にはもっと洗練した議論をしたいと思います。
 もともと、最初の記事を投稿した後で、「『萌え萌え』じゃなくて」何なのか、という点については追記しておこうかとも思っていました。こういった形で、独立した記事になったのは、紅薔薇さんによる充実したコメントのおかげです。頂いたコメントから多くの着想を得てはいますが、今回の記事における考えの責任はあくまでも自分にあります(こんなに長くなったのも、ひとえに僕の責任です)。改めて感謝申し上げます、ありがとうございましたm(__)m。




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